浅野家ゆかりの施設 – 浅野氏広島城入城400年記念事業公式サイト
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ゆかりの施設(浅野家・広島藩政期)

広島城

1 広島城

広島城は、毛利輝元により1589年に築城されましたが、関ヶ原の合戦後、福島正則が城主となり、城の整備および城下町づくりが本格的に行われました。正則は洪水で破損した広島城を無断で修築したとして19年に改易され、かわって和歌山から浅野長晟(ながあきら)が広島城に入城しました。以後、1869年の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を務めました。

082-221-7512

縮景園

2 縮景園

広島藩主浅野長晟(ながあきら)が1620年から別邸(泉邸)の庭園として築成したもので、茶人として知られる家老の上田宗箇(そうこ)が作庭しました。中国杭州の西湖を模して縮景したともいわれています。園の中央に濯纓池(たくえいち)を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築いています。渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置され、それをつなぐ園路を回遊できます。1940年に浅野家から広島県に寄付され、同年7月12日に国の名勝に指定されました。原爆によって壊滅したが、その後約30年かけて復元されました。

082-221-3620

饒津神社

3 饒津(にぎつ)神社

1706年広島藩主浅野綱長(つななが)が、広島城鬼門の方角に浅野長政(ながまさ)の位牌堂を建立したのが始まりで、1810年浅野重晟(しげあきら)・斉賢(なりかた)父子が新たな位牌堂を建立しました。35年斉粛(なりたか)が祖先追悼の為現在地に社殿を建立し、二葉御社と称しました。73年に、饒津神社と改称し、鶴羽根神社付近に至る区域が「饒津公園」として整備されました。

082-261-4616

明星院

4 明星院

毛利輝元が母の位牌所として建立した妙寿寺(院号明星院)でしたが、浅野時代でも、御城の鬼門にあたることで、領内鎮護の祈祷所と定められました。又、始祖長政とその夫人の位牌を安置したことで、更に寺領を二百石賜ることになりました。天保6年(1835)、9代藩主浅野斉粛が境内の西側に始祖長政の御霊を祀るため饒津神社を造営。以後、明星院は饒津神社の別当とされました。堂内には広島浅野家の分家にあたる赤穂浅野家の義士四十七体の木像が安置されています。

082-261-0551

鶴羽根神社

5 鶴羽根神社

鎌倉初期に創建された椎木八幡宮がその前身と伝えられ、1833年に社殿類焼の難に遭い、饒津神社が造営されたこともあり、現在地に再建されました。明治元年(1868)、12 代藩主長勲の撰名により、鶴羽根八幡宮と改称し、明治5年(1872)に鶴羽根神社と改めました。その名の由来は、社殿裏の二葉山(椎木山)のたたずまいが、あたかも羽根を広げた鶴の姿に似ていることで名付けられたといわれています。

082-261-0198

広島東照宮

6 広島東照宮

徳川家康公の御神霊を祀るため、時の広島藩主浅野光晟公によって慶安元年(1648)に建立されました。光晟公の生母振姫(ふりひめ)が家康公の第三女であったことから、東照宮の造営には特に熱心で、二葉山の麓に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。また、家康公の50年忌にあたる、寛文6年(1666)以降、神輿渡御(みこしとぎょ)を伴う盛大な祭り、「通り御祭礼」が50年ごと催され、中断期間があったものの、平成27年10月10日に行われた際は、多くの観光客で賑わいました。

082-261-2954

尾長天満宮

7 尾長天満宮

この宮は学問の神と崇敬されている菅原道真を祀っています。久寿元年(1154)安芸国守平清盛がこの山の峰に入った時、雷を伴う暴風雨に遭い、菅原道真の御加護を熱願し、九死に一生を得たことにより、社殿を創建しました。その後、この地を治めた安芸武田氏、毛利氏、福島氏の守護神として再建されました。寛永17年(1640)、浅野長晟が京から連歌師松尾忠正を招き、その忠正の霊夢により山中にあった神社を現在地に分社し、社殿を造営しました。

082-262-2679

國前寺

8 國前寺

日蓮の弟子日朗の高弟で、兄の日像に師事した暁忍により、暁忍寺として開かれました。明暦2年(1656)2代藩主光晟の妻満姫(自昌院)の菩提所となり、國前寺と改号し、伽藍を整えました。本堂と庫裏ともに国の重要文化財に指定されています。本堂は、二重寄棟造本瓦葺で下重が素木造であるのに対し、上重は壁から柱や軒まで全体を漆喰で塗り篭められています。また庫裏は、切妻造本瓦葺の屋根を二段に葺く、錣葺(しころぶき)と呼ばれる形式となっています。

082-261-4578

圓隆寺(とうかさん)

9 圓隆寺(とうかさん)

広島藩主浅野長晟が入城した元和5年(1619)に建立されました。圓隆寺に祀られている「稲荷(とうか)大明神」は、神名を「いなり」ではなく「とうか」と音読みで呼び、市民から「とうかさん」と呼ばれています。毎年6月に行われる「稲荷大明神」の祭禮「とうかさん大祭」は、広島三大祭りに数えられ、地域の浴衣の着始めの祭として、また広島に夏の訪れを告げる風物詩として親しまれています。

082-241-7420

頼山陽史跡資料館

10 頼山陽史跡資料館

江戸時代後期の日本を代表する文人 頼山陽に関する資料を展示しています。頼山陽の父春水は、天明元年(1781)、広島藩の学問所創設に伴って藩主浅野重晟によって儒学者として登用されたため、大坂から広島へ移り住み、寛永元年(1789)、藩からこの地に屋敷を拝領しました。山陽が脱藩の罪による幽閉中に『日本外史』の草稿をまとめた国史跡「頼山陽居室」は、原爆により焼失しましたが、昭和33年(1958)に広島県によって復元されています。

082-298-5051

広島市立中央図書館

11 広島市立中央図書館

1931年に旧広島藩主浅野家から寄贈を受け、広島市立浅野図書館として開館しました。74年に広島市立中央図書館と名称を変更し、現在地に新築・移転しました。浅野家から寄贈を受けた和漢の古書・図記類のうち、疎開により原爆の被災を免れた資料を「浅野文庫」として所蔵しています。

082-222-5542

広島拘置所壁画

12 広島拘置所壁画

広島城築城400年を記念して企画された壁画です。広島拘置所がかつての広島城郭内武家屋敷の位置にあたることにちなみ、江戸時代の城下町の雰囲気を、約180メートルにわたって再現しました。川底のそこ砂をさらって運ぶ町民を応援するため、各町が山車を繰り出し、囃し立て、お祭り騒ぎをした「砂持加勢」の様子も描かれています。

082-228-4851

天満神社

13 天満神社

浅野長晟は元和5年(1619)に、和歌山を出船し、水主町(現在の加古町)に船を着け広島に上陸、天神坊(現在の天満神社)でしばらく休憩した後、行列で広島城に入城したといわれています。

082-231-4476

広島県立美術館

14 広島県立美術館

その敷地には、私立美術館「観古館」(のちの「浅野観古館」)があり、藩政時代より浅野家に伝わった書画や什器を一般公開していました。1913年、最後の藩主浅野長勲(ながこと)が郷土の歴史・文化の向上に寄与するために設立しました。40年に浅野家は「観古館」を県に寄付しましたが、原爆で焼失しました。68年、県民の願いを託され県立美術館が開館しました。

082-221-6246

国泰寺

15 国泰寺

国泰寺の寺号の由来は、秀吉の法名「国泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士」によるといわれています。墓地には、不動院の住職でもあった恵瓊が建てた秀吉の遺髪塚や多くの浅野一族の墓にまじり、赤穂義士の大石蔵助良雄の妻、大石りく(理玖)と、三男大三郎の墓もあります。

082-271-3547

修道学園

16 修道学園

修道学園は1725(享保10)年、広島藩主浅野吉長(よしなが)が白島稽古屋敷の一部に「講学所」を創始したことを起源としています。また、「修道」という校名は、広島藩7代藩主・浅野重晟(しげあきら)が城内三の丸に開設した「学問所」を、1870(明治3)年に12代藩主浅野長勲が城内八丁馬場へ移して「修道館」と称した時に始まりました。中庸(儒教の経典「四書」の1つ)の「天の命ずる これを性といい、性に率う これを道という」に続く「道を修むる これを教えという」のことばから名づけられました。

082-241-8291

多家神社

17 多家神社

宝蔵はもと広島城三の丸にあったものです。稲荷社は江戸時代初期の元和年間(1615~1623)、浅野氏が広島に入封した時に建立されたと言われ、江戸中期以降、2月初午には庶民でも自由に参拝できました。明治初年に廃社となり、その社殿は多家神社に移築されましたが、火災で全焼してしまい、焼け残った宝蔵は現存唯一の広島城関係の建物となっています。向拝(こうはい)がついて中に大きな神輿(みこし)が納められています。

082-282-2427

上田流和風堂

18 上田流和風堂

縮景園を築庭した上田宗箇は茶人としても名高く、上田宗箇の茶は今日まで伝承され、広島を本拠におよそ400年の歴史を持つ伝統ある武家茶道です。「上田流和風堂」には広島城内上田家上屋敷の茶寮や書院屋敷などが再現されており、伝来の道具や古文書も多数残されています。

082-271-5307

旧金子家住宅外観

19 旧金子家住宅

江戸時代に御手洗(みたらい)の町年寄、庄屋役を勤めた金子家が文人墨客や広島藩の要人などを接待するために建てた屋敷で、茶室や露地には上田宗箇に代表される武家茶道の造りが随所にみられます。幕末に討幕派の長州藩と広島藩が結んだ軍事協定(御手洗条約)が締結された場所であり、呉市重要文化財として指定されています。

0823-25-3462 (呉市文化振興課)

旧千葉家住宅

20 旧千葉家住宅

千葉家は「神保屋(じんぼや)」という屋号で家業として酒造業を営んでいました。家伝によると中世前期に房総で勢力を誇った千葉氏一族を先祖とする武士であり、安芸の国へは永正年間(1504~21)に移りました。初めは大内氏に、後に小早川氏や毛利氏に仕えましたが、毛利氏の移封に伴って武士を辞め天正年間(1573~92)に海田へ来住しました。千葉家は代々広島藩の「天下送り役(幕府の書状や荷物を扱うこと)」「宿送り役(広島藩の書状や荷物を扱うこと)」といった宿駅業務を務めました。

082-823-9217 (海田町生涯学習課)

雁木

雁木

広島市内には新旧含めて400 あまりの雁木が残っています。江戸時代において、太田川水系の水運は、藩領域市場の中核をなす城下町と太田川上流の地域を結ぶ物資輸送の動脈であり、また、瀬戸内の島々からも多くの船が集まり、雁木を利用して様々な生活物資が荷揚げされていました。

湯の山温泉

21 湯の山温泉

湯の山温泉は、大同2年(807年)に開湯したと伝えられています。その後、寛延元年(1748年)に湯量が増え、5代藩主浅野吉長は温泉の噴出を大層喜び、湯所役人を任命し、藩の湯治場として重要視するとともに神殿・旧湯治場を再建、鉄灯篭や金幣を奉納し自ら入湯したことが伝えられています。寛政9年(1797年)には藩の絵師岡岷山が入湯し、「都志見往来日記」に当時の繁栄ぶりを記してします。また、11代藩主長訓にいたっては、多くの家臣とともに湯の山の宿に本陣を置き、7日間入湯しています。
現在は、共同浴場を新設して使用しており、旧来の湯坪はその上段にあります。湯坪は岩崖を掘りくぼめた素朴なもので、湯屋をはじめとした諸施設は当時の姿をよく伝えています。

082-943-9705 (広島市佐伯区役所市民部地域起こし推進課)