江戸時代の文化 – 浅野氏広島城入城400年記念事業公式サイト
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歴史・文化

江戸時代の文化

学問と教育の浸透

広島藩では学問を重んじ、教育の仕組みを整備していきました。7代重晟は儒学者頼春水を招聘し、武士教育のための学問所を開設(現修道中学・高等学校)。春水は朱子学を広め、藩の学制の統一に努めました。長男の山陽が書いた『日本外史』の草稿は、没後出版され幕末のベストセラーとなり、尊皇攘夷運動に影響を与えたといわれています。山陽は文学や芸術にも長け、多くの作品を生みました。
朱子学派以外にも高名な学者が多く輩出し、闇斎学派の植田艮背(ごんはい)、折衷学派の香川南浜(なんぴん)、陽明学派の吉村秋陽・斐山父子などが実績を残しています。
また藩は、農民や町民が日常に役立つ「読み・書き・そろばん」を学習することを望ましいとしたため、18世紀半ば以降になると、多くの寺子屋がつくられるようになりました。師匠は僧侶・神官・町人学者などが務め、読書・習字・修身を指導。都市部や在町では珠算も教えました。


今に伝わる武家茶道 上田宗箇流

茶室 遠鐘 (上田流和風堂)

茶室 遠鐘 (上田流和風堂)

広島藩の家老であり、茶人としても知られる上田宗箇が興したのが茶道上田宗箇流です。
宗箇は、豊臣秀吉の側近として多くの功績を残した名武将。千利休から茶を学び、次いで古田織部の門下となりました。浅野幸長の代から和歌山城主に仕えていましたが、元和5年 (1619)長晟が和歌山城から広島城に入城した際に同行。広島の地に根づく茶の文化を形成しました。
武家茶道は、明治になり藩の解体とともに消失した流派が多いのですが、上田宗箇流は豊臣秀吉時代の華麗な桃山文化を継承し、武家茶の文化を今に伝えています。
宗箇は造園家としても優れ、浅野家の別邸・縮景園を作庭しました。中国杭州の西湖を模して縮景したともいわれる庭園で、中央に設けた池に大小10余りの島を浮かべ、周囲には山・川・滝・橋・茶室などが巧妙に配置されています。池の水は京橋川から取水し、やがて流川となって広島湾に至ります。流川は明治になって埋設され、今も地中を流れています。

上田宗箇流 公式サイト

http://ueda-soukoryu.com/

武士も庶民も楽しんだ祭り行事

広島城下では、さまざまな祭礼も行われていました。城内三の丸稲荷(いなり)社(現在社殿は府中町多家神社)祭礼、胡子祭り、厳島管絃祭の御供船などが主なものとしてあげられます。
城内三の丸稲荷社には普段入ることができない領民も、祭事のときは参拝が許されていたため、数万人もの人で賑わったといいます。胡子祭りは商家の祭りから発展したもので、現在も開催。広島の三大祭りのひとつと呼ばれ秋の風物詩となっています。
管絃祭は平安時代から続く祭事ですが、御供船ができたのは江戸時代のこと。華やかに飾った船が管絃祭前夜に宮島に向かい、当日は管絃船に寄り添ってお供をし、翌朝城下に戻ります。管絃祭は宮島だけでなく広島城下を巻き込んだ一大行事となっていました。船飾りは互いに競い合って、どんどん大きく華美になっていき、見物客も増大していきましたが、明治になり川に橋がたくさん架かるようになると、背の高い船は通れなくなり次第に廃れていきました。
現在「広島三大祭り」としての、とうかさん、住吉祭り、胡子祭りも江戸時代から続く伝統的祭礼です。


和歌など文芸の広がり

庶民の楽しみとして文芸も浸透していきました。18世紀中ごろから藩士を中心に広がっていた和歌は、裕福な町人や農民も教養としてたしなむようになりました。連歌は浅野長晟・光晟父子が熱心に取り組み、次第に町家にも広がりを見せたようです。狂歌は町人文芸のひとつとして、早い時期から広島でもてはやされていました。町大年寄を務めた芥河貞佐は狂歌作家としても著名で、千人ほどの門人がいたともいわれています。