城下町のくらし・西国街道 – 浅野氏広島城入城400年記念事業公式サイト
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歴史・文化

城下町のくらし・西国街道

広島城下の町割り

城下の町割り(都市計画)は、広島城の築城とともに始められ、京都・大坂を模範にしたといわれています。城を取り巻く形で広範囲に武家屋敷が配置され、その外側には職人・商人の町人町や寺社が設けられました。
町人町は、町組(組=行政区画のこと)という組織で自治管理され、町の数は寛永2年(1625)には55町でしたが、宝暦7年(1757)には64町にまで増えたといいます。干拓で広がった土地は新開組と呼ばれ、江戸時代後期には武士と町人を合わせた人口は約5万人となりました。明治初年には7万人を超える東京、大阪、京都、金沢、名古屋に次ぐ大都市となり、西国有数の商業都市へと発展していました。


商業都市としての発展

西国街道

西国街道

城下町における商業とは本来、藩や家臣から年貢や知行として徴収した米などを買い取るなどにより、武具や日用品、農村への物資などを供給することでした。このため有力な問屋商人などは藩から特権を与えられ、ますます力をつけて活躍することとなります。
また、毛利氏支配時代に広瀬村で始まった市は、毎月十日の定期市として開かれるようになり、近隣農村から農作物や雑貨などが持ち込まれるようになりました。これが現在の十日市町です。これらはやがて、卸売りや仲買、振売り(天秤棒を担いで売り歩く商売)、店舗小売などに分化していき、常設店舗を構える商業へと発展。城下町を支える商業文化となっていきました。その名残が毎年11月の胡子大祭となったのです。
また城下町を流れる太田川水系の舟運は、城下と領内とを結ぶ物資運輸の主軸でした。毛利・福島時代にはすでに活用されていた舟運ですが、浅野時代には規模が広がり、より上流とのやりとりが進み、運ぶ物資も舟の数も増加。川岸の町は大きな賑わいを見せました。また、広島湾岸には地乗り、沖乗りの航路が発達し、島しょ部や近国との通商が始まりました。


城下のくらしの変貌

西国街道と猿猴橋

街道絵図

江戸初期の広島城下では職種ごとに居住地域を定める政策で、革屋町・研屋町・鉄砲屋町・大工町など、ひとつの職種でひとつの職人町を形成していました。また職人の仕事は御用聞制で、藩主の元に出入りし御用を聞いてから、職務にあたらなければいけませんでした。
ところが、城下の都市生活の目覚しい発展に伴い、職人の中には藩主や家臣の注文に応じるよりもむしろ、庶民との商売を進めるものも多く現れてきました。中には多数の下職人を抱え経営者のようになるものや、卸商となるものもありました。
町には、町名に冠した職種以外の職人や商人が居住するようになり、商工が雑居する都市に変わっていきました。活気溢れる広島城下には多くの人が流入し、新しい職業も生まれていきました。


城下を貫く西国街道

西国街道と猿猴橋

西国街道と猿猴橋

西国街道

現在の西国街道

広島の発展に大きく寄与したのが西国街道。日本橋が基点の五街道に次ぐ重要な脇街道で、京都と下関を結ぶ幹線です。福島氏により城下に引き込まれた街道は、人やもの・文化を、京や九州から広島の城下へ運んできました。
西国街道の里程元標は元安川東畔に置かれ、制(高)札場も付設されました。道幅は概ね2間半(約4.5メートル)もあり、一里塚や街道松の設置などは浅野氏によるものでした。
街道沿いには人夫や馬が常備する運輸施設や、宿泊施設が整備され、江戸初期には幕府の役人や参勤交代の大名などの通行に使われていました。中期以降になると商用の旅や社寺参詣など、庶民の旅行にも利用されるようになり、旅籠屋なども発展していきました。
現在の本通商店街から平和公園に抜けていくルートは、西国街道です。広島城下では、京橋川と本川の間には地領の人たちの宿泊は許されず、よって東の愛宕町界隈と西の堺町界隈に、東西の宿駅(馬100匹)が置かれました。本陣にあたる御宿所は現在の大手町1丁目にありました。

西国街道

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