浅野氏の治世 – 浅野氏広島城入城400年記念事業公式サイト
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歴史・文化

浅野氏の治世

浅野氏の経歴

福島氏の改易(領地・官職の没収)後、広島城主となったのが浅野長晟。以降12代長勲までの250年間、浅野氏が代々広島を治めました。浅野氏とはどのような経歴を持つのでしょうか。
浅野氏のルーツは尾張国(現愛知県)にあり、長晟の父・長政は織田信長・豊臣秀吉に仕える武将でした。信長亡き後、秀吉の下で出世を遂げた浅野長政は、近江国(現滋賀県)に2万石を与えられ大名となり、京都奉行への任命を皮切りに若狭国(現福井県)、甲斐国(現山梨県)も与えられ次々と出世を遂げていきました。
長政の長男幸長が家督を継ぎ、関ヶ原の戦いの活躍により紀伊国(現和歌山県)城主となります。ところが慶長18年(1613)、嫡子のないまま若くして病死。そして浅野家を継いだのが、次男長晟28歳のときでした。
長政・幸長父子は武将としてだけでなく、行政手腕にも優れていたため、次男長晟に不安を感じる者もいたようですが、長晟は大坂冬の陣・夏の陣で功績を上げるとともに、家康の三女振姫との婚姻が成立。周囲をも納得させる、徳川家からの大きな信頼が得られました。その証として長男の嫡子光晟は、松平安芸守を拝名しました。


広島入りした長晟

長晟が2代将軍徳川秀忠の命を受け、和歌山城から広島城に入城したのは元和5年(1619)。長晟は広島入城直後から、執政についての大綱を示し、実行しました。
これまでの年貢・小物成(こものなり・雑税の総称)で郷蔵(ごうぐら)に保管されているものの明細を書き出させると同時に、田畑耕作や貢租について領民に通達、竹林の伐採の取り締まりなどを実施、蓄えの把握と税収の安定を図りました。
続いて、四家老を東城(現庄原市)・三次・三原・小方(現大竹市)に配備し、郡村にはおよそ5000石単位で代官と各種奉行を配置。領内に細かく管理体制を敷くと同時に、家臣団に対しても藩士の知行割や行政機構の見直しなどを行い、行政制度を充実させました。


領国統治の体制

領国支配については、町方・在方・浦方を区別し、管理体制を整備。町方には、広島城下をはじめ、三次・三原・尾道・宮島を指定し、町奉行を配置し支配体制を整えました。在方とは農業を行う郡村のことで、貢租徴収の基盤です。郡中支配のしくみにし、走り百姓(農民が許可なく土地を離れること)の禁止をはじめとした農業労働力の確保や、灌漑施設の整備などの農政を展開しました。浦方には沿海・島しょ部の郡村を規定し、船奉行の支配下に置き、水主役(かこやく)負担を義務としました。
広島城下町においては、太田川を基準に、広瀬・中島・白神・中通・新町という5つの町組を配置。大年寄が運営にあたりましたが、実際には各町組ごとに自治が行われていました。
また、本川および京橋川の下流部分は、干拓により新開地として新しい村々が誕生。これらは新開組と呼ばれ、城下の一部とされました。


耕地の拡大と海運の発展

新田開発として、広島城下の河口域は大規模な干拓が進められ、新開地はどんどん拡大していきました。広島には多くの人の流入があり、民間の新開事業も活況でした。当初、城下町を取り囲むように広がった干拓は、仁保や江波、観音などへも進み、毛利の時代には島だった比治山や仁保島(黄金山)、江波島も陸続きになりました。
海運も追い風でした。瀬戸内海は従来から、大坂や九州方面からの船舶の重要な航路でしたが、さらに寛文12年(1672)、西廻り航路が新たに開設。日本海側の船が日本海を南下して下関から瀬戸内海に入り、大坂・江戸に向かうという航路で、これにより広島藩領の廻船業は大きく発展しました。

浅野長晟について

浅野長晟 肖像

浅野長晟 肖像

浅野長晟は1586年、近江滋賀郡坂本(現滋賀県大津市)に浅野長政の次男として生まれました。豊臣秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従いました。1610年に備中足守に2万4,000石を与えられましたが、長兄・幸長(よしなが)が病死したため、家督を相続して紀伊和歌山藩主となりました。大坂冬の陣では木津川口の戦いに参戦したほか、夏の陣では、樫井の戦いで塙直之らを討つ功績を挙げました。
19年、福島正則が改易されると、その後を受けて安芸広島42万石に加増移封されました。広島城に入城した長晟は、反抗的な重臣を抑え、当主としての権力を強化して家臣団を掌握しました。32年、広島で死去。享年47歳(満46歳没)。家督は次男の光晟(みつあきら)が継ぎました。

浅野家略系図

浅野家略系図

浅野家略系図

浅野家は浅野長政を始祖とし、忠臣蔵でおなじみの播磨赤穂藩浅野内匠頭長矩は浅野家の分家(宗家は広島)です。
長矩のもとへ初代三次藩主長治の娘、阿久利姫が嫁ぎました。

浅野家の歴代広島藩主

藩主 在任期間 主な出来事
初代 長晟ながあきら1619~32年 広島入城。反抗的な重臣を抑え、家中をまとめる
2代 光晟みつあきら1632~72年 広島湾の大干拓。広島東照宮を建立
3代 綱晟つなあきら1672~73年 在職半年余りで病没
4代 綱長つななが1673~1708年 厳しい倹約令や鉄・紙の藩専売制を実施。
「忠臣蔵」で知られる赤穂事件が起きるが連座を免れる
5代 吉長よしなが1708~52年 職制改革で人材を登用。藩学問所を開き「当代の賢侯第一」ともたたえられた
6代 宗恒むねつね1752~63年 災害などで抱えた債務を財政改革(宝暦改革)で整理
7代 重晟しげあきら1763~99年 宝暦改革を継承。頼春水ら儒学者を登用し、藩学問所を再興
8代 斉賢なりかた1799~1830年 文教政策が充実。地誌や歴史書を編む。
9代 斉粛なりたか1831~58年 凶作に加え、緊縮財政が行き詰まる。饒津神社建立
10代 慶熾よしてる1858年 在職半年で病没
11代 長訓ながみち1858~69年 藩政改革を目指すが、幕末の動乱に巻き込まれる
12代 長勲ながこと1869~71年 版籍奉還で知藩事に。廃藩置県反対の武一騒動に対応。1937年まで存命した「最後の殿様」