広島城下散策の裏話 – 浅野氏広島城入城400年記念事業公式サイト
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コラム

広島城下散策の裏話

広島城下町が現代に甦る

城下研究の基礎

昭和天皇崩御とともに平成の御世となった1989年は、中国の覇者と讃えられ112万石余を領し、毛利輝元により広島城建設が始まった、天正17年から丁度400年の一年でした。広島県も広島市も記念事業を行い、国史跡広島城では平成の大修復が開始され、現在の本丸周辺の景観が漸く復原誕生したのです。

その復原作業に向け格好な資料が、民間の方から広島城へ届けられました。それが『広島城之図』と称する縮尺1万分1の実測図で、日本陸軍が明治10年(1877)に陸軍第五師団の施設造営のため、正確に当時の広島城本丸を中心に、北堀から外堀までの惣構(そうがまえ)を見事に標記され、広島城は複製を行いました。

これにより江戸時代の本丸や二の丸を囲繞(いじょう)する内堀や、羽子板堀・北堀・中堀・外堀(八丁堀)などが、実際にどの場所に存在したのかが分かり、江戸期の城下絵図との対比で具体的に判明されました。縮尺がまばらであった絵図の状況を、この貴重な地図にて復原でき、その後の城郭研究の基本となりました。

城下研究を始動

昭和20年(1945)8月6日の原爆投下により、灰燼(かいじん)に帰した広島城下にはそれまでの歴史景観を伝えるものは無くなったと、広島市民は落胆し絶望の淵に立たされました。しかし、地上に刻印された人たちの証である、屋敷や道路や水路の形状はそのまま残り、これを基に奇跡的に戦後復興がなされたのです。

かつて広島の繁華街を東西南北に繋いでいた、西国街道や出雲石見街道を起点に、徐々に復興の槌音(つちおと)がこだまし、江戸時代以来の町組を再興させるかの如き様でした。それが昭和40年(1965)の新住所標記にて、400年近く広島城下へ継承された町名は、この制度のために消えゆく運命となったのです。

戦前から在住の市民からも多くの嘆願が寄せられ、現行の地名標示で何が悪いのか、新規標記の利点は何なのかでした。広島市は戦前の軍都から脱皮し、戦後の都市への再生を目的として回答した訳です。それで今のうちに戦前の状況を記録し、後世に伝えるべく各種調査が行われ著作も多数発行されました。

広島市被爆10周年事業『新修広島市史』編修事業(1955~1967)はその代表とされ戦前の歴史が綴られ、被爆30周年事業『広島新史』編纂事業(1981~1986)は戦後の歴史を綴り漸く全時代が著されたのです。これに伴い、文政期の広島藩内の地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』や、城下の地誌『知新集(ちしんしゅう)』も相次いで復刊されました。

広島城下を描く

広島城下の実態を研究する資料は、被爆を免れたこれら多くのものが残され、比較的記載内容が完備されています。これらを基に広島市発行の都市計画図(1/2,500)等を用い、図面上にこれら街路・堀割・社寺・史跡等を克明に転記する作業に入り、地図を基に実際に街中を歩き実証する作業を開始しました。

広島市中央公民館では、平成11年(1999)に『歩いてみんさいや!!ひろしまへそガイド(くらしと歴史)』と題したマップづくりを開始し、国土地理院発行の1万分1地形図上に、中区幟町中学校区内の幟町・白島・基町にわたり、「へそ」を広島城とし江戸時代から戦前までの60もの史跡を記し解説しました。

明治・大正・昭和と日本陸軍の第五師団が置かれ、日清戦争開戦時は大本営が置かれ、明治天皇始め両院全議員が来広し、事実上日本の首都となった経緯を明らかにできたことです。広島城天守閣の被爆の実相とかつての街並の復原等、参加者と精緻に地図におこし実際に歩き解説文を作成していました。

この地図は発行の後に無償配布されたため、好評にて既に無くなり絶版となりましたが、基本資料は中央公民館に寄贈しており、閲覧ご希望の方は中央公民館に問合せ頂ければ、随時対応してもらえます。

城下散策の手引

広島市主催で平成17年(2005)に開催された、「ひろしま八区覧会・八区物館」の関連事業に中区内の中央・竹屋・吉島・舟入の4公民館は、「西国街道を歩こう」と9月の土曜日に西区己斐公民館で講演会を行い、100名近くの参加者と共に、昼食持参で平和公園を経由し広島駅南口までそぞろ散策しました。

それが年末に実際に広島城下町を散策しようと、「広島城下町案内衆」を立ち上げ、中央公民館外3館から参加者を募り、毎月第3土曜日に講演会や散策会を開催することとなったのです。関連史跡に関し独自の史跡カードを作成し、やがて地図化する際の基本資料とし、翌年には多くのデータが揃いました。

平成18年(2006)には、『広島城下大絵図』の制作が開始し、基本地図はウェブサイトから無料使用が許された白地図を基本図とし、縮尺を1万分1に統一の後に前述の『広島城之図』を重ねてみたのです。すると面白く符合し明治初期の測量技術に感嘆し、これを地図面の中央に置き城下町を復原したのです。

広島城下の街路は毛利輝元が模倣した、京都聚楽第(きょうとじゅらくだい)と洛中や大坂城と城下通筋に併せ、碁盤の目状の形状を示すことが分りました。さらに城下南北の基線は、安佐南区八木の阿武山と南区似島(安芸小富士)を結び、平田屋惣右衛門が開削した堀割(福島氏により八丁堀・堀川・平田屋川に改修)となったのです。

広島城本丸は毛利輝元の見立てで、佐東郡五箇村(箱島・在間・鍛冶塚・平塚・広瀬)の内、在間の地に建設され、幅広い内堀により掘り上げられた土砂を、本丸に土盛りすることとともに、筏を組み野面積みにて石垣を立ち上げ、犬走りの背後には堅牢な高石垣で天守台を造営する事実を確認したのでした。

羽子板堀から北堀・中堀・内堀・外堀と続き、平田屋川に至る堀川の流れを追い、浅野氏治世により造営された御泉水(縮景園)の水循環は、京橋川・濯纓池・流川筋を繋ぎ合わせ、薬研堀やその他堀川の痕跡を辿ることができました。城下には箱堀・毛抜堀・薬研堀と石垣構造の堀割の技術が確認されます。

京橋川と本川に挟まれた本来の城下町には堅牢な石垣により築堤され、武家屋敷や商人屋敷には雁木(裏木戸)が随所に設置され、舟運の発達を促し太田川及び広島湾からの物流を興したのです。西国街道や出雲石見街道には橋梁(きょうりょう)が築かれ、殆どの川筋では川渡し(渡船)が発達し水の都として整備されました。

こうしてかつての「七つの川」(猿猴川・京橋川・平田屋川・西堂(塔)川・元安川・本川・天満川)には、川船や海船の舟船が常設され、西国街道の渡河点には川船と海船の荷揚げ行われ、各河川には川口番所も置かれ、文字通り水陸の結節点となり、城下南部には広大な新開地を造成することとなりました。

広島城下町は京橋川と本川の間となり、城下側の堤高を半間高くし川筋には水制工(水刎ね)を敷設し、水禍に対する防御としました。城下内の町には通筋に町門が置かれ、通常朝7時から夜9時まで開かれ、それ以外は閉門となり、他領の通行人は宿泊が許されず、東と西の宿場町に分宿させられたといいます。

広島城下町は『芸藩通志』や『知新集』によると、西から広瀬組・中島組・白神組・中通組・新町組が河川に囲まれ所在し、それぞれ構成される町が集っており、通筋に沿い間口割にて町屋が軒を並べていました。因みに天和年間(1681~1984)「城下町切絵図」等では、正確にその実態が見事に描かれます。

こうして平成19年(2007)には、『広島城下大絵図』が完成を見たのですが、その制作事業は継続され、『広島城北大絵図』『広島城南大絵図』『広島城東大絵図』を発行することができました。さらに最後の『広島城西大絵図』の制作に向け、西区の公民館の活動団体と協働にて、来年度に刊行したい想いです。

『ひろしま八区ぐるっと散策「みち」めぐり』は全市版の歴史街道散策地図であり、これら広島城下の散策地図はいわば都心版でもあります。両者を巧みに使うことで、毛利・福島・浅野の歴代広島城主が夢見た広島の行末を、皆様には現在の広島を歩き確かめてください。歩けば歴史が見えてきますよ。

広島市の歴史散策の手引としての地図類は、内容は許より部数も全国の政令都市では最高位なのです。

『広島城之図』 広島鎮台(ひろしまちんだい)は明治6年~21年(1873~1888)まであった日本陸軍の部隊で、当時6つあった鎮台の一つで、広島城跡に本営を置き中国地方西部と四国地方に相当する第5軍管を管轄しました。同21年(1888)の鎮台廃止により第5師団に引き継がれました。同10年(1877)に陸軍により広島城下の測量が行われ、実測図として完成を見ました。当時の広島城惣構の状況が見事に描かれ、その後軍都建設の礎となったとされます。戦後に民間の所有者により広島城博物館に届けられ、複製を作成しその後の広島城下の基礎資料となりました。

『新修広島市史』 昭和30年(1955)1月25日に、広島市長の浜井信三氏の序文に続き全7章にわたり著した、『概観広島市史』(広島市史編修委員会編・広島市役所発行)を嚆矢に、3月10日発行の『広島市史年表』を基に随時刊行されました。発行年月日(西暦)・書名・内容は次の通りで、昭和37年(1962)までに全巻刊行済みです。

1961.02.28 第1巻 総説編/1958.03.01 第2巻 政治史編/1959.08.31 第3巻 社会経済史編/1958.12.27 第4巻 文化風俗史編/1962.03.31 第5巻 年表・索引・地図・編纂沿革/1959.03.31 第6巻 資料編その1/1960.03.31 第7巻 資料編その2 ※広島城下地誌の飯田篤老編『知新集』は第6巻に収録されています。

『芸藩通志』 頼杏坪(らい きょうへい)・加藤棕盧(かとう そうろ/号:株鷹 [しゅゆう] )・頼采真(らい さいしん/号:舜燾 [しゅんとう] )・黒川方桝(くろかわ かたます)・津村聖山(つむら せいざん)・吉田吉甫(よしだ きっぽ)・正岡元翼(まさおか げんよく)により、著作編纂の安芸国広島藩の地誌で文政8年(1825)に完成しました。寛文3年(1663)に広島藩の作成した地誌『芸備国郡志』(黒川道祐(くろかわ どうゆう)編纂)を改訂し、内容を増補するため文政元年(1818)から、再調査や資料の整理等の調査事業を開始し最終的に完成を見ました。掲載内容は全159巻を擁し、江戸時代以前の浅野氏領の安芸国と備後国を対象に、彊域・地理・文化・歴史等を知る第一級資料となっており、主たる著者の頼杏坪は頼山陽の叔父でもあります。

『知新集』 広島町奉行管内(五つの町組と新開組)の唯一の詳細な地誌で、西町奉行菅求馬(すが きゅうま)や町役人山県屋・安田屋らが史料を集め、更に藩士で文人の飯田利矩(いいだ としのり/号:篤老 [あつおい] )が主任となり、文政2年~5年(1819~1822)までの間に整理編集されました。第1巻には国名・郡名・風俗など総本を記し、第2巻から第8巻までは広島五組及び新開について町村別に詳説し、第9巻から第24巻は寺社別の位置や沿革、第25巻は広島城を記しています。県指定重要文化財として『新修広島市史』第6巻「資料編:その一」(1959年刊)に全25巻が収録されています。外に延享2年(1745)に編纂されたと伝える『廣島獨案内(ひろしまひとりあんない)(編者不詳)も、当時の広島城下を見事に伝えています。

 


 

コラム著者 : 佐々木 卓也 氏
  • 昭和29年(1954)広島市佐伯区生まれ
  • 広島県立広島観音高等学校卒業
  • 奈良大学文学部地理学科卒業
  • 広島大学大学院文学研究科研究生終了
  • 京都大学教養部人文地理学教室研修員修了
  • 国立高専講師歴任
専門
  • 歴史地理学・地域民俗学・文化人類学
  • 間学苑:時空人論研究所・主宰
  • 第35回広島文化賞受賞
  • ひろしま歴史街道トリップ実行委員会・座長
  • 広島地名研究会・事務局代表
  • 棚田学会・顧問 ほか

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